「石みたいね」

春になって人生の節目を迎えるにあたり、かねてからどうしても自分の中で言語化しておきたいと思っていたことを、このように文章の形にすることにしました。

 

内容は私のこと、特に母と私のことについてなのですが、虐待や育児放棄があった訳ではありませんので、誤解なきようにお願いいたします。仲が悪かったという事も無く、ごくごく一般的、あるいは比較的良好な母子関係ならびに家庭環境であったと思います。

 

母は家事のみならず習い事の送迎も、娘の勉強や体調の管理もすべて一人でこなしてくれていました(父は仕事の都合上、毎日深夜帰宅な上に休日さえ不規則でしたので)。

私もそんな頑張り屋の母に応えよう、彼女の誉れにはなれど汚点にはならぬ様にしようと、幼いながら努力しました。友人に「○○は何でもできていいねえ」とうらやましがられる位には優等生でした。

反吐が出るほど優等生でしたが、どうしても、多分知人の誰よりも、出来ない事がありました。

 

私は物心ついた時から、『自分の気持ちを言う』事が兎に角苦手でした。

自分の意見がないという訳でも、論理の組み立てが出来ないという訳でもなく(寧ろディベートの類は得意な方でした)、『自分に起こる感情やその原因、理由』を詳しく『他人に伝える』という一点、ただそれだけが出来なかったのです。

自分の気持ちを表す文章は幾通りも脳内で構築されるし、文字に起こすことだってできるのに、いざ他人を前にすると、拙く支離滅裂な短文(悲しい、怖い、辛いなど)でしか話せず、言葉は胸中に募るばかりでした。怒られているなど緊迫した状況だと、更にその症状は加速しました。資料やデータに基づけば、幾らだって理論的なスピーチが出来るというのに。

今ならともかく、かつてはこのようなもどかしい状況を、私は一度たりとも、誰にも話す事は出来ませんでした。私の『気持ち』なので、人に『伝え』ようがなかったのです。……仮に伝えられたとしても、これが理解されたかどうかは不明ですが。

周りの子たちはそんな事で困っていないらしいというのが、さらに私を苛んでいました。

 

自分の気持ちを伝えられない事で一番困ったのは、母との会話でした。

この症状が加速したのも、母との会話でした。

幼いころの私は、「貴方はどう思うの?」「貴方はこれからどうしたいの?」と母に聞かれるのを極端に恐れていました。

その言葉を聞いたが最後、毎回私は無言の口を慌ただしく開閉するほかなくなるからです。

それが日常の些細な会話の時はまだ良かったのですが、習い事の話になった時が問題でした。

 

習い事をやっていた方は経験があるかもしれませんが、あの小中学生期特有の「やる気ないなら辞めなさい。これからどうするのか自分で決めなさい」というようなシーンが、我が家でも繰り広げられたのです。習い事は辞めたくない、と言ったっきり言葉の出てこない私に対し、母は焦れて「何も言えないなら石に向かって話してるようなものね」と発破をかけました。それでも黙ったままの私を一瞥して、「死んだ魚みたいな目をして、言いたい事ないの?」と呆れていました。

半泣きだった私は何も言いませんでした。言えませんでした。言いたいことは沢山ありましたが、どんなに頑張っても単語ひとつすら口から発せられなくなってしまったのです。これは一時的なものかと思われましたが、違いました。「どうしたいの?」と聞かれるたびに、この言葉がフラッシュバックし、口が固まってしまうようになったのです。

 

そして高校生になり、進路選択で揉めていた時、意を決してこの症状について母に話しました。何度もシミュレーションした割に、随分とつっかえつっかえではありましたが。

結論から言って、話したタイミングが悪すぎたのだと思います。

「話せないって、それ障害じゃない?病院行って来たら?」

半笑いで言った母は、「(育て方を)間違えた」と苛立ち交じりに溜息を吐きました。

「何を間違えたって言うの」

私がそう聞くと、「全部よ全部」と言われました。

「……私が生まれたとこからって事?」

「そうね」

 

鼻で笑って行われたその肯定に対してその時の私が何を思ったかは、よく覚えていません。

悲しいとか空しいとかと同時に、何だか安堵したような気がします。これが障害なら仕方ないじゃないか。気持ちの言えない、駄目な子でもいいじゃないか。そこに無駄な努力をして、苦痛に苛まれる必要はないじゃないか。間違った人生だというなら、もう少し好きな事を、好きなようにしてみてもいいんじゃないか。激しい痛みと共に、何かを『許された』ような、そんな気分でした。

 

そこから私の症状は全く改善されませんでしたが、少しだけ世界が広がりました。言葉にならないなら、文章にすればいい。伝えられないならせめて、受け取る側としては積極的に、そして敏感でいよう。昔から好きだった書き物を、日常に組み込むことにしました。高校では海外研修にも参加しました。大学も、人間の文章や会話を研究できそうなところを選びました。

 

症状についても、詳しく調べました。私と同じような症状を経験をしている方がいらっしゃるようで、どうやら発達障害(病院の正確な診断を受けた訳ではなく、その道の専門家でもないので、間違っていたらごめんなさい)に分類されるみたいですね。本当に障害だとするなら、母は凄い探知能力を持っていたという事になります。

今ではノートや携帯のメモを利用して言いたい事を纏め、それを読み上げたり、簡潔な気持ちの表現フレーズを事前に練習し、ストックするなどして、症状への対処に成功しています。これからもきっと長いお付きあいになるので、あまり焦らずやっていきたいと思います。

 

この一件で母を恨んだりすることはなく(後になって前述の発言について誠心誠意謝罪してくれました)、むしろ手間のかかる私を育ててくれたことに感謝してもしきれないし、今でも大好きです。

 

しかし今でも私の口に、母の言葉の枷が掛かったままなのもまた、事実です。

あれらの言葉の痛みを抱えたまま、私は一生生きていくのだと思います。

 

このような乱文を最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。

このような人間が日本に存在するということを知っていただけたら、また同じ様な苦しみを味わっている方の手助けに少しでもなれたら、幸いです。